2011年12月29日木曜日

仮設住宅

斉藤佳子です。
私は震災後、新しく始めたことがいくつかあります。

もちろんこのブログもその一つですが、
12月から人生初となるバイトを始めました。
(私は物心ついた時から、家業である八百屋の手伝いをしていたので
バイトをしたことがありませんでした。)

その仕事は、宅急便の配達の仕事です。

私が配達するところは、近所の仮設住宅です。

石巻には約8000戸の仮設住宅が建設されました。
そのうちの388戸が、私の担当です。

この仕事を始めて、震災後の現実と問題みたいなものを
改めて考えさせられました。

玄関を開けると、正面に奥様の遺影があって、
でもご主人は「ご苦労様」とにこやかに荷物を受け取ってくれます。
胸が痛くなります。

「宅急便です!」と声をかけてもなかなかドアを開けてくれなくて、
そっとドアを開けると車いすのご老人が一人きりで。
あの狭い部屋を車いすで行ったり来たりはできない。
大きな声で叫んでいた自分がすごく恥ずかしくて。

部屋の奥には寝たきりのご主人。
荷物を受け取った奥様は
「私、震災後から目が見えなくなってね。
先生は見えるようになるって言うんだけど、なかなかねぇ」
私は「お大事にしてください」としか言えなくて。

仮設住宅での、老老介護の現実を見た時でした。

私はこの仕事をしながら何ができるだろう?
って考えました。

あ~私には聞くことしかできないな。
そう思いました。

荷物を持っていくと、見ず知らずの私に
話しかけてくれるんです。
「寒いのにご苦労様」
「あら誰だべ?」
「この人ね~、鹿児島の人で~」

なんてことないを話を、流さないで聞くこと。
それだけで、ちょっとは気分転換になってくれればいい。

そして、現地の声を皆さんに届けられたらいいな。
そう思いました。

仮設住宅の間にあるフットサルコート。
この場所で、子どもたちはサッカーの練習をしています。

 

2011年12月15日木曜日

祖母のこと

斉藤です。
93歳まで生きた証しに、
こちらで祖母のことをお話しさせてください。
皆さんの心に少しだけでも
「こんなお祖母さんもいたんだね。」
そんな感じで居てくれたら嬉しいです。

祖母阿部みゑは
大正6年1月31日 大地主!?の次女として生まれる。
ちなみに私と同じ誕生日です(笑)。

女学校時代の夢は「お医者さん」。
しかし、厳格なお父上の反対に遭い断念。

のち、祖父と結婚し、1男2女、
孫8人、ひ孫13人に恵まれる。

好きなことは、
短歌を書くこと。(1日一句。自費で歌集を3冊出しました!)
花を育てること、観ること。(あまりに増やし過ぎて息子に怒られることたびたび)
手仕事。(春夏はレース編み、冬は毛糸編み。とにかく手を動かしていました)
料理を作ること。(基本、体に良いもの。名前が付けられない料理は多々あり)
お茶のみ。(世間話大好き。最近は友達が減ったと…。
今頃天国で友人たちと再会してることでしょうね)
テレビを見ること。(ワイドショー大好き。家族で1番の芸能ツウ)

とにかく多趣味な人でした。
お習字も最近まで習ってましたね。

性格は真面目。
お医者さんになりたかっただけあり、物知りで
分からないことは常に調べてました。
最近のお気に入りは電子辞書。

私の息子は分からないことがあると
「ぴーちゃん(こちらでは祖祖父母をこう呼びます。)に聞けば教えてくれるから。
だって物知り博士だもん。」
と言っていました。

そして、忍耐強い人。
80歳過ぎてから、股関節を骨折しても、あばらを骨折しても、
3.11まで自力で2階の上り下りをしてました。

その時は当たり前だと思っていたことも、
会えなくなってから、
すごいことだと気づくことが本当に多くて…。

もっと話を聞いてあげれば良かった…
もっと優しくしてあげれば良かった…
もっともっとが溢れてきます。

だって本当は明日も会えると思ってたんだから。

祖母はきっと天国で
「本も読まなかったあの佳子が文章書いてるなんてねぇ。」
って笑ってることでしょう。

お祖母さんにとって100歳は通過点だったのに。
大丈夫、そこは私が目指しますよ。
お祖母さんの教えを胸に…。

祖母の歌集と、
瓦礫から見つかった祖母のバッグに入っていた
真珠のネックレス。

2011年12月13日火曜日

習い事の再開

阿部由貴子です。
昨日は子どもたちの習い事の発表会でした。

二人の子どもは、
絵画教室、体操教室、英語教室に通っています。

震災後、収入の見通しがつかなくて、
続けさせるかどうか悩みました。
教室の中には亡くなったお友だちもいて、
先生方も、とても辛かったと思います。

それぞれの教室の再開が決まった時、
私の出した答えは「続ける」ということでした。
1日でも早く、今までどおりの生活を取り戻したいという気持ちと
先生方への厚い信頼の気持ちからでした。

昨日の発表会では、
元気いっぱい、堂々と舞台に立つ我が子をみて
笑みがこぼれました。
二人ともガンバッタね。

割烹 滝川
9月からホテルの一階レストランをお借りして営業再開しました。





2011年12月8日木曜日

あの日から…

こんにちは。初めまして。

宮城県牡鹿郡女川町出身、石巻市在住の主婦,
斎藤佳子です。
夫と息子2人(小学4年と1年)の4人家族です。
女川町の実家は跡形もなくなりましたが、
自宅は無事でした。

あの日、私は自宅で大きな揺れに遭いました。
ダイニングテーブルの下で
「あ~このまま死んじゃうんだ…」
と思うほどの強い揺れでした。

小学校3年生だった長男を迎えに行き避難所へ。
次男は女川町の保育所へ通っていたので
先生たちを信じて、
その日は長男と中学校の教室で一夜を明かしました。

あの日の夜は雪が降って、忘れられないくらい綺麗な星空でした。

明け方ラジオで『女川町壊滅!』の情報が流れ…。
次男と両親、祖母の安否が頭の中でグルグル渦を巻いていました。

奇跡的に次男の保育所は残り、そこで両親の無事も確認しました。
でも誰も祖母のことは口にはしませんでした。

あの日から4日目、両親が私たちの家に来ました。
そして、祖母が津波で流された事実を知りました。

母はずっと祖母を置き去りにしてきた
罪悪感と戦っていました(祖母が自分で残ると言ったのですが)。
92歳だった祖母は、歩いて逃げることさえ出来なかったと思います。
もし、一緒に逃げていたら父も母も祖母と一緒に津波に流されていたと思います。

「私が○○してれば、助かったのに…」
母のような人たちはたくさんいると思います。

今は「祖母がみんなを守ってくれたんだ。ありがとう」
そう思いながら今を精一杯生きています。

電気が点くまで10日。
水道が出るまで25日。

私たちはまだまだいい方。
もっと大変な人たちがいる。
そんな思いで、今も生活しています。


去年、海水浴をした牡鹿半島の海です。
今ではこのきれいな海もなくなってしまいました。

2011年12月7日水曜日

はじめまして

石巻に住む阿部由貴子です。

私は大正三年創業の日本料理店の3代目の長女として生まれました。
生まれも育ちも石巻。
25歳で家業を継ぎ、その後たまたま板前だった夫と結婚。
二人の子どもに恵まれ、
夫・両親・妹・従業員とともに慌しい毎日を過ごしていました。

3月11日

川沿いにあった店は4mの津波にあいました。
自宅は高台にあり、難を逃れました。
築40年の小さな我が家ですが、
地震発生時は私たち家族と両親・妹、そして従業員3人、総勢10人の避難先となりました。

あれから9ヶ月。
私の目からみた石巻をお伝えしていきます。
かたつむりのようにゆーっくりとですが、どうぞお付き合いください。

お友達からのプレゼント。