こんにちは。
斉藤佳子です。
以前のブログでも紹介させていただきましたが、
私は1年前から友人2人と
布さんだる(私たちが作る布ぞうりをこのように呼んでいます。)を
製作しています。
この活動も9月23日で
1周年を迎えることとなりました。
1年間続けてこられたのは、
周りの方の協力と、応援してくれる
みんながいてくれたからです。
『感謝』
この一言に尽きます。
今年の始まりは
5月に石巻で行われた
『いしのまきクラフトフェア』からでした。
このイベントは石巻を元気にするべく、
モノづくりをされている石巻在住、出身の
名のある
方々の企画、販売でした。
ご縁があり、私たち『O.B.N』(活動名)も
参加させていただくことになりました。
このイベントへ参加することで
新聞折り込み冊子へ紹介していただき、
さらに仙台中心部で販売を
していただけることになりました。
そして、インターネットでの販売。
(NPOから支援で販売しています。『応援最中』)
今年の夏は布さんだる一色でした。
購入していただいた方から
「これではダメだ!!」
とダメ出しをされたこともありました。
これも勉強!と気持ちを入れ替え
3人で協力してきました。
頑張ってる姿を見ている人はいないけれど
頑張ったことはきっと認められる。
そう信じてこれまで活動してきました。
まだまだ布さんだる作りは終わりません。
11月には大学の学園祭、
石巻でのイベントへ参加します。
いつの日か、
このブログをご覧いただいてる方々にも
布さんだるを手に取ってもらえる日が
来ることを楽しみにして
これからも布さんだるを
作り続けていきたいと思います。
いしのまきクラフトフェア http://ishi-cra.jugem.jp/
応援最中 http://www.oenmonaka.org/obn-shop/
O.B.N http://o-b-n.jugem.jp/
2012年9月28日金曜日
2012年8月20日月曜日
夏祭り
昨年に引き続き、被災地の小学生に夏休みの思い出づくりにと、
いろいろな団体が様々なプログラムを用意してくださいました。
長女の友だちも、北海道に行ったり、東京ディズニーランドに行ったり!
我が家の長女(小4)は仲良しのお友だちと8月14・15日と
群馬県太田市尾島のねぷた祭りに参加しました。
最初はお祭りを見学するだけだと思っていたら、
山車を巡行する列に参加とのこと。
係の方が2度も石巻に来て、
「ねぷたばやし」を指導してくださいました。
当日は石巻を8時半に出発。
2時頃太田市に到着して、お囃子の準備。
5時半から9時近くまでお祭りに参加となかなかのハードスケジュール。
群馬の暑さは、石巻とは比べものにならないと聞かされ、
少し不安な気持ちで送り出しました。
1泊2日はあっという間!
1時間遅れて、20時到着。
係の方が一番初めに「子どもたちとても立派でした!」
と声をかけてくださいました。
家に帰るの車の中では興奮気味の長女、話が止まりません。
バスの中で、ゲームや歌を歌ったこと。
市長訪問したこと。
お囃子のお姉さん(30歳くらい?)がとってもカッコよかったこと。
そのお姉さんとお友だちになったこと。
次の日、こどもの国(総合公園)で遊んだこと。
お祭りでは途中、具合が悪くなり見学になってしまったそう。
はじめはお囃子に参加するのは恥ずかしく、
行く前は「イヤだなぁ・・・。」と言っていましたが、
最後まで出来ず悔しかったそうです。
お囃子に参加していたときのこと。
おばあさんに肩をポンポンと叩かれ、
「がんばりなさいね」と優しく声をかけられたそうです。
「私ひとりに声をかけてくれたんだよ!」ととても嬉しそうに話してくれました。
招待して下さったNPO法人「生きる塾」他イベントに関わってくださった
全ての方々に感謝します。
石巻最大の夏祭り、「石巻川開き祭り」
7月31日8月1日と行われました。
いろいろな団体が様々なプログラムを用意してくださいました。
長女の友だちも、北海道に行ったり、東京ディズニーランドに行ったり!
我が家の長女(小4)は仲良しのお友だちと8月14・15日と
群馬県太田市尾島のねぷた祭りに参加しました。
最初はお祭りを見学するだけだと思っていたら、
山車を巡行する列に参加とのこと。
係の方が2度も石巻に来て、
「ねぷたばやし」を指導してくださいました。
当日は石巻を8時半に出発。
2時頃太田市に到着して、お囃子の準備。
5時半から9時近くまでお祭りに参加となかなかのハードスケジュール。
群馬の暑さは、石巻とは比べものにならないと聞かされ、
少し不安な気持ちで送り出しました。
1泊2日はあっという間!
1時間遅れて、20時到着。
係の方が一番初めに「子どもたちとても立派でした!」
と声をかけてくださいました。
家に帰るの車の中では興奮気味の長女、話が止まりません。
バスの中で、ゲームや歌を歌ったこと。
市長訪問したこと。
お囃子のお姉さん(30歳くらい?)がとってもカッコよかったこと。
そのお姉さんとお友だちになったこと。
次の日、こどもの国(総合公園)で遊んだこと。
お祭りでは途中、具合が悪くなり見学になってしまったそう。
はじめはお囃子に参加するのは恥ずかしく、
行く前は「イヤだなぁ・・・。」と言っていましたが、
最後まで出来ず悔しかったそうです。
お囃子に参加していたときのこと。
おばあさんに肩をポンポンと叩かれ、
「がんばりなさいね」と優しく声をかけられたそうです。
「私ひとりに声をかけてくれたんだよ!」ととても嬉しそうに話してくれました。
招待して下さったNPO法人「生きる塾」他イベントに関わってくださった
全ての方々に感謝します。
石巻最大の夏祭り、「石巻川開き祭り」
7月31日8月1日と行われました。
2年ぶりに復活した小学校の鼓笛隊。
|
鎮魂と復興を願う花火。 昨年は全壊した友人の家の土台の上でBBQをしながら見ました。 今年はまだ改装していないうちの店の2階でブルーシートを敷いてみました。 来年はどこで花火を見るのだろう。 |
2012年6月11日月曜日
母の手紙
阿部由貴子です。
今日はいい天気。
仕事がお休みでよかった。
朝から洗濯機フル回転です。
5月は忙しい月でした。
GWに運動会に遠足。
父の入院退院、震災で亡くなった大叔父大叔母のお葬式。
仕事も忙しく、私は子どもたちの運動会はほとんど見ることができませんでした。
でも母はもちろん、他の学校に通っている友達家族や近所の親戚のおば様たちが応援に駆けつけてくれました。
相方も仕事の合間に、親子競技や地区対抗リレーに参加。
お弁当も母や滝川のスタッフが手分けして作ってくれて、
子どもたちにとっては楽しい運動会だったようです。
5月には母の日もありました。
震災後は今まで以上に母の力を借りているので、
今年はきちんと感謝の気持ちを伝えようと鉢植えを持って実家に行きました。
でもその日に限って、次から次へと訪問者やら電話が鳴り・・・。
私:「これ」渡す。
母:「あ、ありがとう」受けとる。
となんともそっけない母の日に。
でもそんなカンジが私たちっぽいかもしれません。
「昨秋と同じようにチューリップを100球植えました。
プランターを置いていた所はガレキからさら地になり先が見えません。
それでもやっぱり植えました。
今は冬の時。
根をはる時と思い植えました。
春になれば、春になればと。
遠くから心を寄せ、
心配して励ましてくださる方々がいることを本当に心強く思います。
ありがとうございます。」
母が支援をしてくださった方に書いた手紙。
私も母のように感謝の気持ちを忘れない人になろう。
今日はいい天気。
仕事がお休みでよかった。
朝から洗濯機フル回転です。
5月は忙しい月でした。
GWに運動会に遠足。
父の入院退院、震災で亡くなった大叔父大叔母のお葬式。
仕事も忙しく、私は子どもたちの運動会はほとんど見ることができませんでした。
でも母はもちろん、他の学校に通っている友達家族や近所の親戚のおば様たちが応援に駆けつけてくれました。
相方も仕事の合間に、親子競技や地区対抗リレーに参加。
お弁当も母や滝川のスタッフが手分けして作ってくれて、
子どもたちにとっては楽しい運動会だったようです。
5月には母の日もありました。
震災後は今まで以上に母の力を借りているので、
今年はきちんと感謝の気持ちを伝えようと鉢植えを持って実家に行きました。
でもその日に限って、次から次へと訪問者やら電話が鳴り・・・。
私:「これ」渡す。
母:「あ、ありがとう」受けとる。
となんともそっけない母の日に。
でもそんなカンジが私たちっぽいかもしれません。
「昨秋と同じようにチューリップを100球植えました。
プランターを置いていた所はガレキからさら地になり先が見えません。
それでもやっぱり植えました。
今は冬の時。
根をはる時と思い植えました。
春になれば、春になればと。
遠くから心を寄せ、
心配して励ましてくださる方々がいることを本当に心強く思います。
ありがとうございます。」
母が支援をしてくださった方に書いた手紙。
私も母のように感謝の気持ちを忘れない人になろう。
今春、咲いたチューリップたち |
2012年5月18日金曜日
再開の日に
震災から1年一か月が過ぎた4月29日
実家の稼業(八百屋)が店舗として再開しました。
女川町きぼうのかね商店街 あべしん(阿部新)
震災当初は両親も仕事どころではなく
自分たちがこれからどうすればいいのか どうなるのか…
考える余裕さえありませんでした。
私の家に避難してから
『仕事はもうできない。やめるしかない。無理だ。』
もうあきらめの言葉しかありませんでした。
私も再開できるとは思いませんでした。
それから、瓦礫も少しずつなくなり
周りが動き始め、支援の輪が広がり
弟が京都から店を手伝うために帰ってきて。
両親の心もゆっくりと前向きに進み始めました。
再開した店は以前の半分もない広さ。
店に陳列しているものは、
野菜・果物のほかに
ストール・民族楽器・陶器にクッキー。
以前はなかった雑貨たちが並んでいます。
お越しくださるお客様は
『いろんなものがあって楽しい!』
と言って下さいます。
以前とはちょっと違う『あべしん』。
再開をして、今がスタート地点。
これからもずっと『あべしん』を見守り
応援していきたいと思います。
がんばれ!!あべしん!!
実家の稼業(八百屋)が店舗として再開しました。
女川町きぼうのかね商店街 あべしん(阿部新)
震災当初は両親も仕事どころではなく
自分たちがこれからどうすればいいのか どうなるのか…
考える余裕さえありませんでした。
私の家に避難してから
『仕事はもうできない。やめるしかない。無理だ。』
もうあきらめの言葉しかありませんでした。
私も再開できるとは思いませんでした。
それから、瓦礫も少しずつなくなり
周りが動き始め、支援の輪が広がり
弟が京都から店を手伝うために帰ってきて。
両親の心もゆっくりと前向きに進み始めました。
再開した店は以前の半分もない広さ。
店に陳列しているものは、
野菜・果物のほかに
ストール・民族楽器・陶器にクッキー。
以前はなかった雑貨たちが並んでいます。
お越しくださるお客様は
『いろんなものがあって楽しい!』
と言って下さいます。
以前とはちょっと違う『あべしん』。
再開をして、今がスタート地点。
これからもずっと『あべしん』を見守り
応援していきたいと思います。
がんばれ!!あべしん!!
2012年5月3日木曜日
卒園 そして 小学校入学
大変ご無沙汰しております。
阿部由貴子です。
ただ今石巻は桜が満開です。
この春息子は小学校一年生になりました。
昨年4月。
たくさんの悲しみの中でスタートした最後の幼稚園生活。
私たち大人はとにかく子どもたちが毎日楽しく過ごすことができるよう、
そのことを最大の目標として1年間を過ごしてきました。
卒園式はどれだけ泣いてしまうだろう・・・。
ずっと思っていました。
が、しかし!!
卒園式数日前にまさかまさかのインフルエンザ発症。
たったひとり卒園式欠席。
私 号泣。
母に先に大泣きされ、息子はすっかり泣くタイミングを逃していました。
でもなんと、先生方が在園児の修了式の日、息子のために卒園式を開いてくださいました。
そして当日にはたくさんのお友だちがお母さんと一緒に駆けつけてくれました。
私 また号泣。
思い出に残る最高の卒園式でした。
4月入学式。
今度は万全の体調で臨みました。
はじめ私はスーツで出席を予定していたのですが、
式の3日前、神からお告げがあったように朝起きると「着物で行こう!」と思ったのです。
そこから用意が始まりました。
母の着物や小物は全てヘドロまみれになったのですが、
奇跡的に私の着物が高台にある自宅にあり着ることが出来ました。
当日はお天気にも恵まれ、無事小学校生活スタート。
まだまだ緊張しているのか、家に帰ってくるとグッタリで夕ご飯前に
一度寝てしまう毎日ですが、
新しいお友だちも出来たようで毎日楽しく通っています!
阿部由貴子です。
ただ今石巻は桜が満開です。
この春息子は小学校一年生になりました。
昨年4月。
たくさんの悲しみの中でスタートした最後の幼稚園生活。
私たち大人はとにかく子どもたちが毎日楽しく過ごすことができるよう、
そのことを最大の目標として1年間を過ごしてきました。
卒園式はどれだけ泣いてしまうだろう・・・。
ずっと思っていました。
が、しかし!!
卒園式数日前にまさかまさかのインフルエンザ発症。
たったひとり卒園式欠席。
私 号泣。
母に先に大泣きされ、息子はすっかり泣くタイミングを逃していました。
でもなんと、先生方が在園児の修了式の日、息子のために卒園式を開いてくださいました。
そして当日にはたくさんのお友だちがお母さんと一緒に駆けつけてくれました。
私 また号泣。
思い出に残る最高の卒園式でした。
4月入学式。
今度は万全の体調で臨みました。
はじめ私はスーツで出席を予定していたのですが、
式の3日前、神からお告げがあったように朝起きると「着物で行こう!」と思ったのです。
そこから用意が始まりました。
母の着物や小物は全てヘドロまみれになったのですが、
奇跡的に私の着物が高台にある自宅にあり着ることが出来ました。
当日はお天気にも恵まれ、無事小学校生活スタート。
まだまだ緊張しているのか、家に帰ってくるとグッタリで夕ご飯前に
一度寝てしまう毎日ですが、
新しいお友だちも出来たようで毎日楽しく通っています!
卒園式のとき、息子が私にくれたお花。 「なぜ青?」と思ったら、 紙を自分たちで好きな色に染めて それを先生がお花にしたのだそう。 私の好きな色わかっていたんだね。 ありがとう。 |
2012年4月3日火曜日
一年遅れの修了式~女川町立保育所~
春の日差しが暖かくなって
気分も軽やかなってきました。
斉藤佳子です。
3月末女川町で1年遅れの
『女川町立保育所合同修了式』が行われました。
震災後、ずっと願い続けてきた修了式。
石巻の小学校に通っている次男。
久しぶりに会えた友達、先生。
うれしさと感動と寂しさと…。
一生忘れられない修了式となりました。
震災当日、石巻の自宅にいた私は
女川の保育所に通う次男を
迎えに行くことは出来ませんでした。
(大津波警報の中、海に向かって
車を走らせることは出来ませんでした。
今となればその場を離れなかったことは
お互いにとって良かったことでした。)
「きっと先生方が子供たちを守ってくれる。」
そう信じて。
震災時、保育所へ迎えに行ったお母さんの話では、
雪が舞う園庭に子供たちは
お昼寝の恰好のまま避難していたそうです。
6人位の集団を作り、
1枚の毛布にくるまって。
泣いている子もいたけれど、
年長さんは静かにじっと耐えていたそうです。
何度もくる余震、そして
寒さに、どれだけ不安でいたことでしょう。
今も考えるだけで胸がしめつけられる思いです。
震災で園児、園児の家族、保育士の家族が犠牲になりました。
その中で『修了式をしてあげたい。』と
保育士、保護者の強い希望で
一年遅れの修了式は行われました。
いろいろな思いがつまった修了式。
子どもたちの姿がとても凛々しく
頼もしく感じられました!
気分も軽やかなってきました。
斉藤佳子です。
3月末女川町で1年遅れの
『女川町立保育所合同修了式』が行われました。
震災後、ずっと願い続けてきた修了式。
石巻の小学校に通っている次男。
久しぶりに会えた友達、先生。
うれしさと感動と寂しさと…。
一生忘れられない修了式となりました。
震災当日、石巻の自宅にいた私は
女川の保育所に通う次男を
迎えに行くことは出来ませんでした。
(大津波警報の中、海に向かって
車を走らせることは出来ませんでした。
今となればその場を離れなかったことは
お互いにとって良かったことでした。)
「きっと先生方が子供たちを守ってくれる。」
そう信じて。
震災時、保育所へ迎えに行ったお母さんの話では、
雪が舞う園庭に子供たちは
お昼寝の恰好のまま避難していたそうです。
6人位の集団を作り、
1枚の毛布にくるまって。
泣いている子もいたけれど、
年長さんは静かにじっと耐えていたそうです。
何度もくる余震、そして
寒さに、どれだけ不安でいたことでしょう。
今も考えるだけで胸がしめつけられる思いです。
震災で園児、園児の家族、保育士の家族が犠牲になりました。
その中で『修了式をしてあげたい。』と
保育士、保護者の強い希望で
一年遅れの修了式は行われました。
いろいろな思いがつまった修了式。
子どもたちの姿がとても凛々しく
頼もしく感じられました!
『みんなの笑顔は宝物』
2012年3月1日木曜日
働くママは忙しい
こんにちは。
阿部由貴子です。
震災後、私たち家族の生活は一変しました。
今まで母や妹に頼り、子育て中心の生活をしていた私。
しかし震災を機に父と母が引退。
相方が社長に、私が若女将となり、一気に仕事中心の生活が始まりました。
9月にホテルのレストランをお借りして、営業再開してからは
さらに慌しい日々が私を待っていました。
慣れない場所。
慣れない立ち仕事。
あれがない、これがない!
朝から晩まで「これでもかぁーーー!!!」というくらい働きました。
帰りが遅い私に代わり、子どもたちのことは母が一手に引き受けてくれました。
食事の支度にお洗濯。毎日のお弁当作りに学校のお迎え。
震災前は毎日着物を着ていた母。
着物は全てヘドロまみれになり、
今は上下ユニクロで孫たちと奮闘しています。
そんな母はこう言います。
「震災で失ったものは多かったけど、
こうやって孫とゆっくり過ごす生活が待っていたなんてね」と。
仕事を再開した当初、毎日20時になると携帯電話に電話をしてきた子どもたち。
「何時に帰ってくるの?」
「早く帰ってきて!」
何度も何度も電話をかけてきました。
5ヶ月たった今、だいぶ電話の回数も減りました。
『ママは遅くまでお仕事をしているもの』と諦めたのか、
最近は
「20時半に帰ってくるの?ヨッシャー!早いね」と言うようになりました。
私も最近どうにかこの生活にも慣れてきました。
妹と話し合い、私が早番、妹が遅番となり、仕事の分担も出来てきました。
今までの従業員の他に、新たなメンバーも加わり、
少しづつですが気持ちに余裕も出てきました。
たくさんの人たちに支えられているなぁと実感する今日この頃です。
阿部由貴子です。
震災後、私たち家族の生活は一変しました。
今まで母や妹に頼り、子育て中心の生活をしていた私。
しかし震災を機に父と母が引退。
相方が社長に、私が若女将となり、一気に仕事中心の生活が始まりました。
9月にホテルのレストランをお借りして、営業再開してからは
さらに慌しい日々が私を待っていました。
慣れない場所。
慣れない立ち仕事。
あれがない、これがない!
朝から晩まで「これでもかぁーーー!!!」というくらい働きました。
帰りが遅い私に代わり、子どもたちのことは母が一手に引き受けてくれました。
食事の支度にお洗濯。毎日のお弁当作りに学校のお迎え。
震災前は毎日着物を着ていた母。
着物は全てヘドロまみれになり、
今は上下ユニクロで孫たちと奮闘しています。
そんな母はこう言います。
「震災で失ったものは多かったけど、
こうやって孫とゆっくり過ごす生活が待っていたなんてね」と。
仕事を再開した当初、毎日20時になると携帯電話に電話をしてきた子どもたち。
「何時に帰ってくるの?」
「早く帰ってきて!」
何度も何度も電話をかけてきました。
5ヶ月たった今、だいぶ電話の回数も減りました。
『ママは遅くまでお仕事をしているもの』と諦めたのか、
最近は
「20時半に帰ってくるの?ヨッシャー!早いね」と言うようになりました。
私も最近どうにかこの生活にも慣れてきました。
妹と話し合い、私が早番、妹が遅番となり、仕事の分担も出来てきました。
今までの従業員の他に、新たなメンバーも加わり、
少しづつですが気持ちに余裕も出てきました。
たくさんの人たちに支えられているなぁと実感する今日この頃です。
仕事で遅くに帰宅したある日のこと。 お風呂のドアにこんな張り紙が。 おっと危ない!教えてくれてありがとう。 |
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